数年分のストックを利用して、
主に図書館で借りた本の感想を簡潔に書いています。
本当に簡単に書いていますので、
ネタバレなどの心配はほとんどありません。
解説風で内容を賞賛する事が滅多にないのが特徴です。

『デジデリオ』
『王の眠る丘』
『カスティリオーネの庭』
『三人の名探偵のための事件』
『時の娘』
『巨大ロボット誕生』
『日本史漫遊』
『大江戸死体考』
『九マイルは遠すぎる』
『「ニッポン通」の眼』


『デジデリオ』前世への冒険 森下典子

書評での紹介率が高かった本。
作者と同じ姿勢の日本人は多いと思う。不思議な事をバカにしつつも気にしてしまう、そんな人。バカにするなら気にするな。うっとおしい。
作者も今一歩信じ切れないまま自分の前世であるというデジデリオ探究の旅に出掛ける。疑う姿勢は最後まで変わらないが、資料集めは面白い。ルネサンス時代の芸術家の姿があちこちにちりばめられ、結果、紀行として楽しめる造りになっている。

『王の眠る丘』 牧野修

正統派ファンタジーの王道を直進する話。
いわゆる少年成長もので、悪の王を倒すまでの道程を書いている。
違うのはラストの振り。さて、彼はどういう道を歩むのだろうか。

『カスティリオーネの庭』 中野美代子

探していたのはこの作者が書いた『三蔵法師』。だけど、本屋さんで見つからないので、同じ作者のこの本を借りた。(現在、『三蔵法師』は入手済み)
乾隆帝と、彼に仕えるカスティリオーネという宣教師の宗教に関するやりとりに主題を置いた作品。乾隆帝と同じように中国共産党もキリスト教徒を増やしたくないらしいが、今、結構な速度で信者が増えているらしい。皮肉な事に、皇帝を戴いていた土壌にはあの宗教は浸透しやすいのだ。
さて、今後はどうなることやら。

『三人の名探偵のための事件』 ?

作者名を書く前に返却。
四人目の名探偵のための事件である事は明白。

『時の娘』 ジョセフィン・ティ

『THE DAUGHTER OF TIME』
リチャード三世、せむし男、殺された2人の王子。この3つのキーワードは聞いた事があった。だが、具体的にどの時代でどのような理由で誰によってなどは知らなかった。
これはベット在住探偵による、歴史推理である。
イギリス人ならこの作品に衝撃を受けるのだろう。作品に言う所の、歴史はトニィパンディになりがちなのだから。
我々は「歴史」にドラマを求めてしまう。我々と同じであったろう過去に、我々とは違う劇的な展開を望むのだ。
それが往々にして、英雄を作り、悲劇をでっちあげ、あるはずのない大儀を生む。過去は未来に繋がり、現代の中に過去はある。偉大な人物など滅多にいない。
先ずはあの人も私達と同じだという簡単な事実から始めてみよう。

『巨大ロボット誕生』最新ロボット工学がガンダムを生む 鹿野司

要は「ガンダムは作れる!」という内容である。
個人的にガンダムを動かす「燃料」が具体的に何であるのか知りたかったのだが、「ロケット燃料と同じ」としか書いてなかった。とすると、ガンダムの燃料は「水素」か?十数年後の車だな。とすると、燃焼後に生じた「水」はどうしているのだろう?宇宙空間に漂うのか?ん?

『日本史漫遊』 井沢元彦

日本の古墳は持ち主が分かるのが2つしかない、という内容だけは覚えている。他は何にも印象に残らなかった。対談相手に皆川博子がいたような…?

『大江戸死体考』人斬り浅右衛門の時代 氏家幹人

食べながら読んでいたら、流石にちょっと辛かった。
筆の運びは軽妙で、全く猟奇趣味に走っていないのだが、なにせ、本の中には「死体」の話しかない。でも、面白い。
人間が物騒な生き物であるのはいつの時代も変わりない事がよく分かる。この本によれば、江戸時代の自殺者の数は現代以上。ただし、現代は1年に7〜8万人の人が行方不明になっているので、結局どっこいどっこいなのではないだろうか。まあ、死体の「肝」をめぐっての争奪戦なんかは…現代人でもやるかもな。
主体は人斬りが商売の山田家。と言っても、斬るのは罪人の首か死体。試し斬りに死体を使っていたのは知っていたが、それ専門の家があるとは…。しかも副業が「人胆薬の製造・販売」。花のお江戸に死臭が漂う、とは作者の言だが、まさにその通り。しかして、現代は不夜の東京に血の匂い流るる、ってトコロでしょうか。

『九マイルは遠すぎる』 ハリィ・ケルマン

『THE NINE MILE WALK』
たった一言から犯罪を見つけ、解決へと導いていく。
これ一作に14年かけったちゅーから、凄い。モチロン、ずっと書いていた訳ではなく、思い付かない時は放っておいたらそうなったらしいのだが。探偵役が学者さんで、アメリカものにしては全体の雰囲気が静かなのが、良い。

『「ニッポン通」の眼』異文化交流の四世紀 ヘルベルト・プルチョウ

西洋人はアジアに来ると、自己否定と自己肯定の間で揺れるらしい。
誰でもそうだろうが、「本当に我々のしたことは正しかったのか?」と問われれば、完全な肯定は有り得ない。(普通はな)
だから、自己肯定をする時は「宗教」に走る。否定に走る場合は同化に向く。だからと言って、小泉八雲やウェンセスラウ・デ・モラスエの如き同化は、やや自虐的に過ぎる気がする。
西洋が間違っている訳でも東洋が素晴らしい訳でもない。我々はただ、行為の結果を知るほどに賢くもなく、遠くも見えず、ただ小さいだけなのだろう。