『泣き虫弱虫諸葛孔明』 酒見賢一
★★★★☆
一冊目を読んだ時の驚きと笑いと比較すると、やはり2冊目の衝撃は劣るが、それでも楽しい『泣き虫弱虫諸葛孔明』の第弐部である。
長坂坡(ちょうはんは)の戦いに至るまでの経緯に長々と作者の茶々、いや検討が差し挟まれ、ようやく、長坂坡の戦いの戦いで終わる第弐部である。
第壱部で最後どうにか三顧の礼まで辿り着いたと思ったら、弐冊目では、長坂坡までしか進まない。
このペースで進展して、本当に孔明の最期まで書き終わるのか?
心配になって来た。
内容(=書き方)は、前に紹介した壱冊目と変わらないので、割愛。
私が八重洲ブックセンターで『泣き虫弱虫〜』2冊をまとめて掴もうとした時に、この本のタイトルを口にして、「何だ?これは?」と戸惑っている男女連れがいた。
気持ちは分かる。
「泣き虫弱虫」と「諸葛孔明」が結び付くこと自体が未読の人には、不思議だろうからな。
私はそんな2人の前で、壱部と弐部を手に取り、カウンターへと向かった。『〜諸葛孔明』を女性が何の躊躇いもなしに持って行ったことで、その2人が更に混乱したかどうか、は知らない。
面白いことは面白いが、人を選ぶ本だ。
ただ、これが楽しく読めれば、今後はもっと『三国志』や「歴史」が楽しくなるに違いない。
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『書評家<狐>の読書遺産』 山村修
★★★★☆
帯に、こうある。
惜しくも早逝した稀代の読書名人が、ガンと闘いながら遺した「本を読む人生」最後の68冊
書評家<狐>最後の書評本である。
シャーロックホームズから志ん朝の落語まで、名作からマイナーまで幅広く取り扱う、狐こと山村修さんの書評もこれが最後である。
惜しい。
誠に惜しい。
作家の上をいく「名文」をもって、本を紹介するその手腕がもう「ない」のだ。
<狐>の書評は短い。
よって、68冊の書評を読むのにもさほど時間はかからない。
だが、私はこの本をじわじわと1週間かけて読んだ。
そうして、ページを捲る間に、この書評家を失って、惜しいと思う気持ちを正確に言い換える言葉に出会った。
なきぞかなしき
そのままである。
2006年8月、<狐>こと山村修氏は肺ガンで逝去されました。
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『語り手の事情』 酒見賢一
★★☆☆☆
「妄想」を取り扱った小説である。
「妄想」故に、内容は性的・倒錯的である。
が、『語り手』を自称する人物が冷静に登場人物達の「妄想」を「取り扱って」いるため、エロティックさは控え目である。(ただ、作者の父親はこれをポルノと認識したようだ)
物語の舞台は、一応、英国のヴィクトリア朝であり、主人公?である『語り手』はメイドの姿を借りている。
そう、「借りて」いる。
人によっては、『語り手』は男にも見えるのだ。
そして、小説の登場人物でありながら、物語を「物語る」。
常に第3者の立場を保ち、館の主人のために「妄想」を収集するのが、彼女(彼)の役割である。
彼女(彼)は常に冷静に館を訪れる人びとの「妄想」を聞いて、語り、集めているのだが…。
中国歴史小説を得意とする作者の、いつもとは少々外れた作品である。
性的な話しかない作品だが、この作品を酒見氏が書いた理由は、後書きを読めば納得できる。
これは、つまり、鹿島茂『オール・アバウト・セックス』と同じ主旨の小説なのだ。
後書きにある酒見氏の主張には、私もおおいに賛同するところなのだが、その内容を引用したら、作者がわざわざあんなに長い後書きを書いた意味がないので止めておく。
確かに日本のセックス事情はとてもお寒い。(商売ものは当然除いた意味合いでである)
いつだったか、セックスを三大快楽の1つとして、愉しんでいるかどうか、世界的にアンケートを実施して、その結果が新聞に載っていた。
その結果、中国人が最悪で、次に日本が悪かったと思う。
両国では、全体の60%の人が、セックスを愉しんでいなかったのだ。
中国は伝統的に「子作り」が目的であって、快楽は二の次らしいから、まあしょうがないのかもしれない。
しかし、性的産業華やかなりしこの国で、この%は、正直馬鹿馬鹿しい。
スウェーデン、だったか、ノルウェーだったか。
北欧の国では、授業できっちりセックスの方法と意義を教える。
授業時間を取り、映像学習で、倒錯的な知識が入ってしまう前に、本来の正しい知識を責任を持って大人が教えるのだ。
日本も昔は、少年少女時代に知識を与える場と人が村々にいた。
それが、現在はあらゆる性的な商売に取って変わられ、「生(ナマ)」の知識が責任ある大人から与えられない。商売は商売であるが故に、強い刺激を与える「倒錯」に走りがちである。日本の大人はどうして、正しい知識を子供達に授けるのを止めてしまったのだろう?(このあたりは、「明治」「敗戦」に原因があると思う)
そして間違った知識に基づいた「妄想」が生まれる。
性的な「妄想」が暴走した時に何が生じるか、それは、今日起こる幾多の事件ではっきりしているではないか。
現在の日本のセックスに関する社会の有り様はどう考えてもおかしい。
という主張を酒見氏もしていたので、後書きを読んでうんうんと頷いた。
本当はもっと続きを書きたいらしいが、引き受けてくれる出版社がないらしい。
別に続きを読みたいワケではないが、引き受ける懐の広い出版社があるといいなと思う。
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『アヘン王国潜入記』 高野秀行
★★★★☆
ゴールデントライアングルに入り込み、ケシの種まきから収穫、更にはアヘン中毒まで体験してきた著者によるルポルタージュである。
南米のコカと並ぶ「麻薬」ケシからは、アヘンとヘロインができる。アヘンの方は歴史上有名な「アヘン戦争」で覚えている日本人が多いだろう。その時、イギリスがケシを栽培させたのは植民地インドであった。
現在、ケシの栽培地として有名なのは、ゴールデントライアングルこと、ミャンマー(ビルマ)奥地である。
というのは、私も知っていた。
が、そのゴールデントライアングルの中心地が、反政府ゲリラの支配地で、ミャンマーの軍事政権の支配が及んでいなかったのは知らなかった。公式にはシャン州、しかし、実質的にはワ人が多く住むワ州である反政府ゲリラの無法地帯に著者はつてを頼って、潜入する。
反政府ゲリラの上層部の承認も取り付けて、身の安全をある程度確保してから、ケシを栽培している村に7ヶ月滞在した。そうして、現地で実体験したケシの栽培は、スリルも暗部もない、単なる「農業」であった。
だが、単なる「農業」でもなかった。
著者は豊富な知識と経験、そして鋭い観察眼で、現地に溶け込みながら、その実態を解きほぐし分析する。
著者のルポは日本より先に世界で評価された。
今まで彼のように現地に入り込み生活を共にしたルポライターなぞおらず、ゴールデントライアングルの中心地でありながら、ワ州の実態を記した詳しい報告は皆無。その上、分析も確かとくれば、評価されて当たり前なのだが、先に出版した日本の書評ではいっさい取り上げられず、英語版を出してから外国で注目を集めた。
(とても今更だが)本当に日本の批評家のアテにならないことである。
このルポは1995年のワ州を記している。
その当時と今とでは、ゴールデントライアングルの実状は変わっている。
本のあとがきにあったが、ワ人のアヘン(ヘロイン)ビジネスは、今や中国系に乗っ取られて、著者が世話になった反政府軍の実力者は暗殺されてしまったそうだ。
ワ州自体が中国に隣接していて、反政府であるが故に、ミャンマー(ビルマ)より、中国との付き合いが深かった。歴史的にもつながりがあり、アヘンの密輸も中国経由で行われていたのだから、利に敏感な中国人が手を出さないワケがない。
ゴールデントライアングルでごく普通の農民達によって、ごく普通に「農業」として行われていたケシ栽培は、今、どうなっているのか。
彼を迎え入れ、共に働かせてくれた村人達は、今、どうしているか。
著者も気にしていたが、ワ州自体の旗色が反政府から親政府へと変わり、親しい実力者(コネ)を失った今では確かめる術はないのだ。
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『漱石先生お久しぶりです』 半藤一利
★★★☆☆
読み物としては面白いが、信頼性と言う点では多少差し引かねばならない、夏目漱石についての調査レポートである。
著者は10年前に『漱石先生ぞな、もし』で文学賞を取った。漱石の孫を妻にしている強みがあり、その利点を生かしつつ、「歴史探偵」として、漱石の書物や漱石当人についての「推理」を楽しむない様である。
よって、書き方が平易で読みやすい。
が、何度か専門家からの指摘で修正を入れているように、著者の「推理」には明らかな間違いがある。なので、書いてある内容を、ハナから信じてはいけない。
また、この著者は江戸っ子であるため、同じ江戸っ子への身びいきがよくある。以前の日記で取り上げた同じ著者の勝海舟の本でもそれは顕著だった。
よって、その点でも著者が下す「評価」を丸呑みしてはならない。
夏目漱石は確かに100年200年の寿命を持つ作家である。
友情と愛を天秤にかけた「心」なぞは、ずっと教科書で取り上げていい作品だろう。
が、彼は江戸っ子で、学者であったが故に、狭量でもある。
夏目漱石は米が稲穂に実ることを知らなかった。
また、長塚節『土』の序では、百姓について「蛆同様に憐れな百姓生活」、「長塚君は、彼等の獣類に近き、恐るべく困憊(こんぱい)を極めた生活状態を」などと書いているあたり、都会人である作家の見聞が偏っていたことの証であろう。
『続漱石先生ぞな、もし』を読んでいないため、著者が漱石のこのへんまでを取り上げているかどうかは知らない。
楽しみで書いているのだから、不快な部分は省いてもいいかもしれない。
でも、それでは、それまで、なのである。
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『用心棒日月抄』 藤沢周平
★★★☆☆
没後10年目にして、藤沢ブームがまた「来て」いるらしい。書店では平積みが当たり前、帯には流行作家のコメントが付いている。
えぬえちけいのドラマで知った『三屋清左衛門残日録』以来、地味に藤沢作品を読んで来た。
その間に作者本人が亡くなられ、映画「たそがれ清兵衛」が当たり、チョーシこいた監督にシリーズ化され、キム○クが出るまでまつりあげら(こちらにとっては格下げさ)れようとも、藤沢作品は、静である。ブームの再来に出版社が踊ろうとも、またいつの間にか、藤沢作品はひっそりと後退しながら、息長く読まれるであろう。
主人公の青江又八郎は、故あって人を斬り脱藩した。
刺客につきまとわれながらも、生きていくためには食べねばならぬ。
糊口をしのぐため、請け負う用心棒稼業。この仕事が、同時代の吉良邸討入りと絡み合いつつ物語は進んでいく。
主人公が若いせいか、藤沢作品にしては、「軽い」出来だ。(と感じる)藩の陰謀に巻き込まれていても、離れて江戸にいるために、彼がどろどろの政治的駆け引きから遠いせいだろう。
話も全体的に食っていくのは大変だが、「気楽な」用心棒稼業といった雰囲気となっている。
藤沢作品の「入口」にするにはちょうどいいが、慣れた読み手には少々物足りなくもある。
ただ、やはり、赤穂浪士の描写には、藤沢周平らしさが光る。
単なる「忠臣」としては描いていない。
歌舞伎がでっちあげた「忠臣蔵」より、こちらの「解釈」の方がよほど筋が通っている。
そう、仕える主人が「愚か」であればあるほど、それを厭わず死んだ忠臣の「忠義」が光り、愚かな主人の「無能ぶり」が見えなくなるのだ。
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『八月の博物館』 瀬名秀明
★★☆☆☆
作者本人の考えや少年時代を織りまぜながら書き上げられた物語である。
いつも右にしか進まない学校からの帰り道を、左へ折れて、亨少年はミュージアムに出会った。そのミュージアムは世界中のあらゆる博物館、美術館に繋がっている驚くべき場所であった。
ミュージアムを基点として、少年は小学校最後の夏を知的な冒険に満ちたものにするのだが…。
作者の分身でもある「作家」が上記の少年の夏物語を創作している場面も挿入されているため、イマイチ少年の「冒険」に没頭できない。
平行して書かれる「物語」についての作者の考察も興味深いし、ミュージアムの設定も面白い。それでも、やはり作者自身を投影した作家の存在は、たとえ物語の重要なポイントであっても、読み手の気持ちをたびたび現実に戻してしまう。
仕掛けとしても悪くはないが、没入タイプの私の読み方には合わなかった。
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文中の富士山の描写で、作者がもう少し東方面の同県出身ではないかと思い、作者紹介で確認したら、やはりそうだった。
私がいる西の方ではよほど天気が良い日でないと富士山は見えない。
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『私の外国語学習法』 ロンブ・カトー
★★★★☆
米原万里さんが翻訳していることからたどり着いた本である。
カトーという名字であるが、日系ではない。作者は、ハンガリー人の女性である。
彼女はほとんどハンガリー本国を出ることなく、14カ国のヨーロッパ言語と中国語、日本語を身に付けた通訳&翻訳者だ。
では、彼女はどうやってそんなに多数の言語を習得したのか。
彼女自身が筆を取り、その方法を本書に記した。
本書の重要な点は、何度も彼女が主張するように、母国語以外の言語も「学習」によって身に付けることができる、と明言されている点である。
親の転勤や、政治的・経済的理由から母国を離れ、外国語にどっぷりとひだれる環境にたまたま恵まれた。そんな環境になくとも、努力とやる気さえあれば、誰にでも外国語の習得は可能であると彼女は言う。
では、彼女が実践した習得方法は何か。
それは「読書」である。(ネタバレ?につき伏せ字)
勿論、修得したい言語の本であるのは当たり前。実際に彼女はこの方法で16カ国語を身に付けたのだ。
ただ、喋れるようになるためには、それだけでは当然足りない。翻訳は兎も角、通訳は話せなければ意味がない。正確な「発音」ができるようになるためにはどうするか、も記されている。(これ以上は読んで確かめるのが筋でしょう)
彼女は必要な点を分かりやすく簡潔に述べている。
外国語に興味がなくとも、言語や文化の比較という視点からも面白い本である。
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本書は米原万里さんのただ1つの翻訳書である。後書きにも翻訳刊行することができた最初で最後の本とある。彼女ならではの翻訳の妙が楽しめるお得さも良い。
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『ピュタゴラスの旅』 酒見賢一
★★★☆☆
短編集である。
タイトルのような古代の哲学者を主役とした話が2つ。現代ものが2つ。帝国主義の時代を背景としたのが1つ。
全ての短編に共通するネタはない。
現代ものから始まったと思ったら、次は哲学者のピュタゴラス、その次はまた現代、次は帝国主義時代、最後にまたローマ時代の哲学者エピクテトス。
と、同じ文芸雑誌に連続して書いているのだが、時代があちこち飛ぶので、続けて読むと、やや面くらう。
私は、哲学者を主役とした2つの話を興味深く読んだ。特に最後の「エピクテトス」は、彼の哲学の強さを読ませながら、最後にそれをぐらつかせるのがいい。
「哲学者」シリーズにして、この作者に続けて書かせたら面白いだろうなあ。
現代もの2編がさほど目新しくない、オチの見えた内容だったから、余計にそう思う。
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『瑠璃の翼』山之口洋
★☆☆☆☆
出だしから、小説ではなく、えぬえちけいのドキュメンタリーをそのまま文章にして読んでいるような印象が強かった。満州に着任した実在の飛行機乗りの軍人を主人公としているせいか、と思っていたが、どうにもその書き様が気になったので、20数頁進んだところで、えいや、と最後の10数頁に飛んでみた。ら、最後の作者のコメントに主人公が自分の祖父であると、記してあった。
あ〜、だからか。
と納得したものの、戻って読み直す気力が失せて、本を閉じた。
書き方が下手というワケではないし、表現の何が引っ掛かるったワケでもないのだが、物語だと思って読み始めたため、期待が外れたような気分になったようだ。
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