→希土戦争時における日本商船の難民救助について


<資料1>
ニューヨークタイムズ:1922年9月18日の記事


「The New York Times」 September 18, 1922
ATHENS, Sept. 16 - Refugees constantly arriving from Asia relate new details of the Smyrna tragedy. On Thursday last there were six steamers at Smyrna to transport the refugees, one American, one Japanese, two Franch and two Italian. The American and Japanese steamers accepted all comers without examining their papers, while the others took only foreign subjects with passports.

(日本語訳)
--9月16日 アテネ
アジアから絶えず到着する難民が、スミルナの悲劇の新たな詳細を物語る。この前の木曜日には、難民を輸送できる汽船はスミルナに6隻いた。アメリカ船1隻、日本船1隻、フランス船2隻、イタリア船2隻である。他の汽船がパスポートを持った外国の国民だけを乗せている間、アメリカと日本の汽船は、彼らの書類を調査しないで全ての来た人々を受け入れた。


<資料2>
ニューヨークタイムズ:1922年9月21日の記事より抜粋


「The New York Times」 September 21, 1922
….A Japanese merchantman brought succor to the refugees en route to Greece and gave them the kindest treatment.…

(日本語訳)
--1隻の日本の商船がギリシャへの避難民の救助をもたらし、そして彼らに最も親切な治療(取扱い)を与えた。


<資料3>
「BOSTON GLOBE」:1922年12月3日の記事


(原本が入手できなかったため、日本語訳のみ)

--スミルナにあるインターナショナルカレッジ(国際大学)のBirge教授の妻、ミセス.アンナHarlowe Birgeが、スミルナが燃えた時の出来事について、言うには。
絶望的な避難民が、波止場に互いに寄り集まり、そして、港は、彼らが沈む前に助けを願って周りを泳いでいる男女でいっぱいだった。 その時、港に、数千ドルに値するシルク、レースと陶磁器のとても高価な積荷を甲板に積んだ日本の貨物船がちょうど到着した。日本人の船長は躊躇なくそのことを実行した。全ての積荷を港の汚い水の中に捨て、そして貨物船は5、6百人の避難民を積み込み、ピレウスに連れて行き、安全にギリシャの岸辺に上陸させた。


<資料4>
「THE ATLANTA CONSTITUTION」:1922年10月15日の記事


(原本が入手できなかったため、日本語訳のみ)

--港に日本戦艦が1隻いた。スミルナにいた他の全ての軍人の行動とは反対に、この戦艦は何とかして余地を見つけ、全て(乗せられるだけ)の避難民を船内に乗せた。そこにはニッポンから来た貨物船もいた。その船はこれ(避難民か?戦艦の行動か?)を見た時、船外にその積荷の大きな1部分をどさっと捨て、そして全ての避難民を乗せて、ピレウスまで彼らを連れて行った。アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、そしてその他の皆は、彼らの自国民だけを船に乗せることができると避難民に話した。そして、それはみすぼらしい(腰の低い?)ジャップたちに向けて彼らの気質を証明している。
私は彼らを誇りに思う。なぜなら、全てが終わった後、東(の避難民?)が西に会うことができた…。


<資料5>
Gorge Horton,American Consulate Generalの証言:1922年9月18日


(原本が入手できなかったため、日本語訳のみ)

--1隻の日本の船が幾人かの避難民を救い出した。私は、(人命救助の)目的のために彼らの積荷の幾つかを船外へ投げ捨てたと聞いた。その船に乗った乗客(避難民)は、日本人の船員と日本人の親切さについて最上の言葉で話す。



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第1次世界大戦終了後の1922年9月。
オスマン帝国(現:トルコ)の港町スミルナ(現:イズミル)をケマル・パシャ率いるトルコ軍が包囲していた。
大ギリシャ主義(=領土の拡大)を狙って、1919年に侵攻したギリシャ軍に対し、オスマン帝国(トルコ)は1921年より反撃を開始。戦いに敗北したギリシャ軍は、スミルナより撤退。追撃してきたトルコ軍により、スミルナは9月8日に包囲・占拠された。
当時のスミルナは、トルコ人・ギリシャ人以外にもイタリア人、フランス人、アメリカ人などが居住する国際都市であった。また、トルコ軍に追われたオスマン帝国在住のギリシャ系住民なども、多数がスミルナに逃げ込んでおり、上記の資料に書かれている「避難民」は、彼らのことを示す。
そのスミルナで9月13日に火災が発生。
都市の住人と避難民は、退避を強いられる。
(この火災については、トルコ軍の放火、スミルナ在住のトルコ人の放火、都市住民側の失火など、全ての可能性が提示されており、原因は定かではない)

そこに(恐らく)たまたまいたのが、「自国民を救助する必要のない」1隻の日本商船であった。
その日本商船は、船の積荷を捨てて、避難民を救助し、ギリシャのピレウスへと連れて行った。

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私が、この、「日本商船による避難民の救助」を知ったのは、桜井万里子編『ギリシア史』の「まえがき」である。
救助について紹介する文章は短かった。が、その文章の後ろの( )内に、情報掲載雑誌『文芸春秋』2004年11月号が紹介されていたため、これも図書館にある、と予約を入れて借り出してみた。その中に、情報源はニューヨークタイムズの1922年9月の記事と、ギリシャ系アメリカ人作家ジェフリー・ユージェニデスの小説『ミドルセックス』であるとあった。
試しにネットで検索してみたところ、ニューヨークタイムズの記事は、ちょうど1922年の分までなら、無料で閲覧できた。そして、探し当てたのが、上記の<資料1><資料2>である。
『ミドルセックス』は、ピューリッツア賞を受賞したこともあり、日本でも翻訳出版されている。図書館で借りて、次の文章を探し出した。


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ジェフリー・ユージェニデス著『ミドルセックス』

スミルナでは、難民救助の船を送ってきた唯一の国が日本だった。デズモーナは終生、感謝の念を忘れなかった。人々が真珠湾奇襲を持ちだすと、デズモーナはこう言った。「海の中の島国の話なんかしないでおくれ。あの国はあんまり大きくないから、島という島をみんなもらわなきゃならないんじゃないの?」


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この時救助されたギリシャ系住民の大半が、その後、仕事を求めてアメリカに渡った。そのため、この「救助」の話は、ギリシャ系アメリカ人に語り継がれている。
<資料3><資料4><資料5>は、それをアメリカで聞いたギリシャ系オーストラリア人の方が集めた資料を、勝手に訳したものである。(このurlの存在も人に教えて頂きました)
が、実は、訳してみたら、気になることが出てきた。

日本の商船が、積荷を捨てて難民を救助したのは、間違いがなく、問題はない。(この商船の名前を上記のギリシャ系オーストラリア人の方は調べている。4つの候補=Suwa Maru,Altai Maru,Fushimi Maru,Mishima Maruを探し出したが、1つに絞り切るまでには到らなかった)
問題は、<資料4>に出ている日本の軍艦である。
この軍艦が問題となる理由は、次の通りだ。

1、日本の軍艦の存在に触れているのが、<資料4>のみである。
2、日本商船の救助がこれ程目立ったのなら、唯一、難民を乗せた軍艦も目を引いた筈だ。なのに、他の記事では、それにいっさい触れていない。
3、1922年の時点(1919年に第1次世界大戦は終了。地中海に派遣された日本の艦隊も帰国している)で、果たして日本の軍艦が、スミルナ面する地中海海域にいるだろうか?
4、1922年9月20日のジャパンタイムズに、スエズ(運河)の西に、日本海軍の軍艦は1隻もいない、と記した記事がある。(There are no ships of Japanese Navy west of Suez,…)


では、<資料4>に出ている「a Japanese warship」は、いったいどこから現れたのだろう?



気になる。



また、『ミドルセックス』に、「スミルナでは、難民救助の船を送ってきた唯一の国が日本だった。」と書いてあるのも引っ掛かる。
商船の救助は、あくまでも私的な行為であって、「国」の救助とは到底言えない。これが<資料4>のa Japanese warshipを示しているのなら、「日本海軍の救助=日本国の救助」と解釈しても差し支えはない。だが、a Japanese warshipの存在そのものに確信が持てないため、これは商船のこととしておくのが良いのだろうか。


そうして、ふと気付いてみれば、この事柄に関する資料は、上にあげた通り、全て、外国のものなのである。
日本語の資料は本当にないのか。
a Japanese warshipのことも、名前の分からない日本商船のことも、日本の資料をあたってみるべきではないだろうか。


と気になってしまったので、このネタも「気になる」に入れてみた。
以後、これに関する調べを、地味に継続してみます。

以上。


→ネット上で確認(閲覧)できる資料・記事:全て英文

ギリシア系オーストラリア人Stavros Stavridis氏による調査ページ

1922年までの記事が検索・閲覧できるニューヨークタイムズ

英語版wikipediaにある「Great Fire of Smyrna」の記事:日本商船への言及あり

アルメニア人に関連した記事を集めたページ:Before the Slienceに関連記事あり



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