鎌倉幕府の高麗出兵計画について
ドラマでは、時宗&実時による「皆をまとめるため」のフェイクとして用いられましたが、鎌倉幕府による『高麗出兵計画』は実際に提案され、実行されかけた本当の出来事です。以下に大体の流れを記しましたので、興味のある方はお読み下さい。
文永の役の終了後、建治二(1276)年三月を出撃予定として、『高麗出兵』の用意が始まりました。推進者は実時と連署の義政。実時の息子実政(17歳←顕時が酔っぱらいだった頃、自分は彼と顕時の名前を混同してました。)が指揮官として九州に下っています。(家時じゃないんです。)ただ、弱年であるため、実際の指揮は少弐経資(景資兄)が取る事になっていたようです。
これに備えて、各国の御家人に人手は何人、武装はどの程度揃えられるかなどの調査が行われました。(ドラマの中で景資さんが聞いてましたね。それに対し菊地さんがやる気を見せなかったように。)御家人達の戦闘意欲は乏しく、また、安達泰盛が攻勢ではなく、防衛に専念するべきだと主張して、実時らと対立しました。どうやら時宗も(表には出ませんが)防衛派だったようですし、朝廷も出兵には反対していました。そのため、建治元年に実時が病を得たあたりから徐々に防衛派が力を増し、いつの間にか攻撃論は立ち消えとなってしまいます。代わりに例の石塁が作られ、対立は防衛派の勝利に終わります。(このあたりから、泰盛が幕府内での勢力を拡大していきます。)
この攻撃論は弘安の役の後、再び、義政によって持ち出されますが、実現はしませんでした。
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