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義宗殿が亡くなり、義政殿も去られ、評定衆も寂しくなりましたのう。 お嘆きになりますな、執権殿。梨子殿。 これは泰盛殿、頼綱殿のせいではありませぬ。全ては高麗出兵をなきものとした、えぬえちけいの所行でござる。 実際の所、義宗殿の死因は不明、義政殿は義宗殿が鎌倉に戻られる前に出奔されております。 二人は高麗出兵計画の推進派でありもうした。 こう申してはなんであるが、二人は泰盛殿(防衛派)との勢力争いに破れ、幕府の中枢から姿を消したのでござる。そのまま高麗出兵計画をえぬえちけいが採用していれば、義政殿だけでも再登場の可能性があったのでござるが…、今となっては詮無き事。 さて、出奔の際に手渡した石を、義政殿は大事にして下さっておられるだろうか。 無断で出奔、出家された咎で、幕府に取り上げられた領地の慰めになっておれば良いが…。 (すみません、つい悪いクセで最後にトドメを刺してしまいました。) 義宗が京都から鎌倉に戻り、評定衆の一員となった。その祝いの席で、時宗は九州の守護(県知事のようなもの。基本的に名ばかりで、現地に常駐はしない。)たちに自分達の守護国に戻るよう命じると提案する。 反対する泰盛。 そんな泰盛を頼綱は露骨に牽制する。 守護の帰還は、北条得宗家の力を強めんとする、頼綱の案であった。 その案を実行しようとする時宗に泰盛は、その場を出て抗議の意思を示す。が、その先で、祝子に幸寿丸の不明を知らされる。 全員総出の捜索が始まる得宗家。 頼綱によって幸寿丸は見つけられるが、祝子はその労働or心労(?)によって、子供を流産してしまう。 即、一緒に見ていた母親に聞きました。 「あんなんで流産するの?」 「…普段、動いてないからじゃない」 「…」(つまりはしないんだな…。) ついに素人の母親までがフォローに回るようになってしまいました。どうする!えぬえちけい!どんどん救いようがなくなっていくぞ! 事実、三回も流産してますけどね、祝子さん…。(元冦が原因だったと以前に書きましたが、もしかしたら、これからの泰盛と時宗の不仲の方が、彼女には痛手だったかもしれません。) その一件(?)から松下禅尼(何だか、痩せていませんか?)の提案で、泰盛は幸寿丸元服の烏帽子親を申し出ようとする。が、頼綱は先手を打って、義政を介して将軍に烏帽子親の願いを申し出る。その際、泰盛と義政の間で板挟みになった義宗は、自害して果てる。 どちらにもつけず、苦悶の末の自害であった。 享年二十五歳。武勇に優れながらも、短い生涯であった。(正確には建治三(1277)年八月十七日没。つまり夏。雪にまみれるのは不可能でござりまする…。ちなみに義政は同年四月四日に出奔。実時は前年に死去。計算、合わな過ぎや…。義宗には久時という子供がいます。文永九(1272)年生まれですので、この時はご、五歳…。) 幸寿丸は元服により「貞時」となる。通例に背いて、将軍の一字を頂かない元服名であった。これは、時宗の政治的な配慮であったが、この件以後、北条得宗家と安達泰盛の溝は深まりを見せ始める。 将軍惟康親王の複雑そうな表情が上手かったですね〜。 …(間)… あと、何を書けばいいのだろう。 あ、兄。 「密航」ですか。案外、オーソドックスな手段ですね。ただ、着いたのはいいんですが、そこは高麗ですよね。そこから大都までどうやって行くのですか?歩いていったら、北条時宗が終わってしまいますよ〜。 桐子…。 アンタ、時宗を捨てたら、今度はオヤジと時輔かい。頼むから一度くらい、男勝りの設定を生かして、自分一人で何かをやってみようよ。いちいち人(謝国明)を頼らないで、ね。 てゆーか、やっぱり気分が悪いから、書いておこう。 そんな理由で義宗を自害に追い込むんじゃねェ!えぬえちけい! 次回予告:『妻のなみだ』 梨子さん…。(もう、何を書けば良いのやら…。) そーか、頼綱って悪役だったのか…。(今頃気がつくその事実。)いや、今回の義宗に対する情報筒抜け&脅しっぷりに、将来の恐怖政治の片鱗が垣間見えました。お馬さんの時に女物の着物を掛けてましたが、あんな所だけ昔の風俗に忠実(だったハズ)にしてどーゆーつもりなんでしょう…。(金がかからんからだろーな。)もー、ホント、えぬえちけいって。 |
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